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時代の情景
『リスボン特急』〜「フレンチ・フィルム・ノワール」の新しい在り方〜 

「映画というものは単なるスペクタクル芸術ではないということを発見したのだ。私は非常に長いこと映画はスペクタクルだと信じ込んでいたのだが、ここ数年の新しいアメリカ映画の諸作品を見て、自分が間違っていたことに気がついたのだ。(〜中略〜)映画は文学、音楽、絵画の三つを結合して、我々の文化に取って変わったのだ。多数の芸術なのだ」
 メルヴィル監督は、この作品の制作時にこう語ったそうです。

 わたしとしては、更に写真と演劇も結合要素であると考えていますが、いずれにしてもこの言葉からは、リュミュエール兄弟から始まってメリエス、エイゼンシュタインやシュトロハイム、グリフィス、チャップリンらの時代、映画初期からの映画理論と同様に、映画によって社会を激変させることが可能であることを想定している芸術家の志ともいえる熱いものが伝わってきます。
 また、一般的には絵画、彫刻、音楽、文学、建築、演劇につづく第七芸術といったのはイタリアの文芸評論家リッチオット・カニュードでした。

 わたしの『リスボン特急』の初めの印象は、いつもの地味なジャン・ピエール・メルヴィル監督の作品にしては、ストーリー・テリングやアクション、キャスティング等、華やかで派手な作品となっているような気がしていました。しかし、その印象も彼が語っているように非常に斬新で個性的なものです。

 この作品のショット構成は独特です。ワン・シークエンスにおいてすら連続した展開のスピーディなモンタージュによる緊迫感が全編通しての特徴となっています。
 また、列車の疾走とヘリコプターのクライマックスともいえるシークエンスに、わざわざミニチュア模型を用いて撮影していることなどは、スペクタクル・シーンを、あえてフィルムの編集で表現しようとしたものであるような気がしてなりません。

 そして、アラン・ドロン演じるコールマン警部が、犯人のひとりであるルイ(マイケル・コンラッド)を背後から回りこんで取り押さえるときの場面に、ストップ・モーションのアクション・シーンをインサートしていることなどは独特の効果的な演出で、極めて印象深いシーンでした。
【映像における効果としてのスローモーションは言うまでもなく、現実よりも遅い速度で再生することであり、通常は映画では1秒間に24コマだということですが、現在の技術では、これを「高速度撮影」により行うことが一般的で、24コマより多いコマ数により撮影し、画面のブレを防いでいるそうです。
 また、ストップ・モーションとは、アニメーション技法のことで、人形や写真などの静止画像を、少しずつ動かしたり連続させて、コマ送りによる一連の動きを創っていく映像技術の方法です。
 当初、わたしは「高速度撮影」ではなく、通常の速度で撮影したものをゆっくり再生したスローモーション映像であるように思ったのですが、メルヴィル監督は、ストップ・モーションを『サムライ』で使用したと語っていることから、この犯人逮捕の場面でも同様な意味で使用したのではないかと推測できます。
 いずれにしても、意図的な視覚効果を狙ったワン・ショットの映像には、それがコンマ数秒の短いカットであっても観る者に強烈な印象を持たせる効果を持っています。】

 そして、わたしには、メルヴィル監督が自らの作品である『いぬ』『サムライ』『仁義』等とも異なったヨーロッパのアクション映画の新しい在り方を模索しているようにも見えるのです。
いぬ
/ アイ・ヴィー・シー





 キャスティングにおいても、スペクタクル映画の本国ハリウッドの名脇役のリチャード・クレンナを起用していること、フランスの大スターであるアラン・ドロンやカトリーヌ・ドヌーブの起用など、ハリウッドに対する前向きな挑戦をしようとしていたことは間違いのないように思います。

 それらは、脚本においても顕著です。
 リスボン往き特急列車の走行中に、ヘリコプターからワイヤロープを使って列車にしのびこみ、麻薬を盗み出すリチャード・クレンナ演ずるシモンの行動には、セリフがほとんど使われずに延々と寡黙なシーンが続きます。他の乗客と鉢合わせになり、煙草を吸ってごまかす場面や、特急列車の速度がヘリコプターの追跡可能である区間終了までの、時間経過との闘いなど、今では珍しい場面ではありませんが、やはりシモンに感情移入してしまいます。
 逆に、靴ひもを解いて靴を脱ぐシーンや、部屋に忍び込むときのメジャースケールと磁石を使って鍵穴を探すショットの描写は実に仔細でしつこいくらいです。これらのカットはメルヴィル演出の独特の特徴かもしれません。しかし観る側は、この描写があることによって、犯罪者シモンとそこに居合わせて実際に時間を共有しているような錯覚にとらわれます。
 この必要以上の丁寧な描写と、ヘリコプターと列車のシーンにあえてミニュチュア模型を使用したこととは、メルヴィル監督の主張の表裏の表れなのでしょう。

 また、登場人物と作品のテーマとの関連においても、シモンの登場場面に多く映し出される凱旋門が印象的ですし、ルーブル美術館でのシモンのクローズ・アップとゴッホの自画像の連続ショットも同様です。

 逆に、コールマン警部の登場するカット前に常に挿入される警察庁舎の建物を、歪んで見えるように映し出している意図的なカメラワークは分かり易い比喩です。
【参考〜キネマ旬報1972年12月下旬号No.595(「「リスボン特急」の映画的な魅力 メルビル映像の秘密 ドロンの刑事の位置」白井佳夫)】

 こういった何気ないワン・ショットも作品テーマを伝達する方法として使われている場合には、非常に重要な意味を持つものなのではないでしょうか。
凱旋門
E.M. レマルク Erich Maria Remarque 山西 英一 / ブッキング





炎の人ゴッホ
/ ワーナー・ホーム・ビデオ





 これらの映像展開の時系列等のモンタージュは、メルヴィル監督の編集技術で独自の緊迫感を創り出しており、はっきりした映像におけるテーマを表現しています。カメラワークやシナリオ、キャスティング、音楽を含めて、彼の種々の様々な新たな意気込みを感じ、わたしは、サイレント時代の映画を新しい様式で発展させた、アクション映画とは別のジャンルの作品であるとまで感じてしまうのです。

 それらのこととは逆に、女性の描き方においても、「フィルム・ノワール」の古典技法の原則に非常に近いキャラクターを用いているような気がしています。もちろん、「フィルム・ノワール」というジャンルそのものが男性を描くことを主にしており、「フレンチ・フィルム・ノワール」、特にアラン・ドロンのそれにおいては、女性を完全に拒否しているほどの過剰な男性中心の作風が一般的です。
 この作品もその例に漏れているわけではありませんが、トリュフォーやゴダール等のカイエ派が絶賛していた1940年代のハリウッドB級「フィルム・ノワール」に登場するファム・ファタール(暗黒街の女)の位置づけの特徴から、基本に忠実なしっかりした原則に近い登場人物としての設定を意識しているように思えます。

【ハリウッド作品のフィルム・ノワールには、女性の特定な位置づけと、いくらかあいまいなイデオロギー的効果をつくりだす、次のような五つの構造的な特徴が見られる。それらは、
 1 物語が捜査という構成をもっているということ
 2 フラッシュ・バックやヴォイス・オーバーを多用するプロット構成であること
 3 多くの視点をもつこと
 4 ヒロインの性格描写がしばしばあいまいであること
 5 表現主義的な映像による女性のセクシュアリティの強調
(引用〜『フィルム・ノワールの女たち〜性的支配をめぐる争闘』E・アン・カプラン著、水田宗子訳、田畑書店、1988年(フェミニスト批評の方法ー意味の創造より))】
フィルム・ノワールの女たち―性的支配をめぐる争闘
E.アン・カプラン 水田 宗子 / 田畑書店





 コールマン警部とカトリーヌ・ドヌーブ演じる強盗団の首領シモンの妻カティの恋愛は、ふたりが初めて知り合ったときから、すでにシモンに気づかれています。主人公とファム・ファタールの関係において、コールマンとカティの逢い引きのシークエンスがフラッシュ・バックのプロットとして、ふたりのセリフに集約されていました。

 ファム・ファタールとしてのカティは、強盗団である金持ちの男と生活していて、集団強盗の論理で殺人も厭わず、夫であるその男を裏切り、不倫相手は夫の旧友であり、しかも警察官であること、恐らく夫が警察に捕えられること、彼の死なども彼女にとっては想定しうる範囲であり、旧友との関係も最後には清算せざるをえないことも了解しています。

 「謎の女」としてのキャラクターが表現されているというよりも「女の謎」が描かれているといえそうです。人物描写のあいまいさ、すなわち「謎の女」を演じさせることは、カトリーヌ・ドヌーブが大衆に人気のあるスター女優であるため、極めて困難なことであったからでしょう。
 この魅力的なファム・ファタールを演じたカトリーヌ・ドヌーブによって、コールマン警部の欠陥(この作品では、権力の論理に従って生きることで、全ての大切なものを失ってしまうこと)をあばきだす役割を担わせ、成功させています。

 最後に夫からの電話に対して無言で対応したカティ、そして、ラストシーンでコールマン警部に夫のシモンを無惨にも殺されてしまったカティは、死んだシモンも含めて、彼らとの関係をもう修復できる状況にはないのです。男を食いものにしてしまうほどのセクシュアルなキャラクターでありながら、主人公の男達の持つハードでシニックなヒロイズムを共有している印象を観る者に残させることや、カティの魅力が、危険に満ちた強いセクシュアリティである「フィルム・ノワール」の原則からはずれていないことなどから、古典的なファム・ファタールの基本を踏まえたうえで、更に現代に発展させた描き方であったようにも思います。

 また、カトリーヌ・ドヌーブの衣裳はこのメルヴィル作品でさえも、いつものとおりのイブ・サンローランでした。この作品の最高の贅沢は、カトリーヌ・ドヌーブの起用だったかもしれません。
イブ・サンローラン―喝采と孤独の間で
アリス ローソーン Alice Rawsthorn 深井 晃子 / 日之出出版





 警察官の日常が、冒頭でのセリフとヴォイス・オーバーとで説明されます。
「毎日同じ時刻にシャンゼリゼへ巡回に出る」
「こちら8号車」
「私だ どこだ 今から直行する」
とパトカー内での電話連絡のセリフの後に、

「まだ街は夕暮れ時だが本当の仕事の始まりは街が寝静まってからだ。
 コールマン警部」

 ストーリーのプロットにおけるヴォイス・オーバーを使用する代わりに、メルヴィル監督は、いつものように作品の主張をはっきり分かり易く表現しています。
冒頭での
「警官に存在しない感情がふたつある。あいまいさと侮蔑である。」
のテロップとコールマン警部のセリフは、それを明確にしています。

 さて、この作品でもジャン・ルノワールの門下であるメルヴィル監督らしく、すべての登場人物を肯定的に描いています。ルノワール作品『ゲームの規則』での「映画においては、すべての人間の言いぶんが正しい」というセリフを思い出します。
 同じ門下生ともいえるルキノ・ヴィスコンティ監督は自らの貴族の立場、下層の労働者や農民、資本家などの各階級の立場を描き続けました。メルヴィル監督は、決して正業に着くことが出来ない犯罪のプロたちの生態や、暗黒街で犯罪者を摘発しながらも、やはりそこでしか生きることのできない公権力の末端に位置する警察官らを描き続けました。

 アラン・ドロンは、この作品で初めての刑事役を演じました。そして、彼が扮したそのエドワード・コールマン警部という人物は、警察が民衆に嫌われており、侮蔑されている存在であり、またその理由も、その典型が自らであることも自身が一番よくわかっているのです。

 ただ、旧友シモンと彼が経営しているナイトクラブだけは、そこで働くダンサーたちも含めて彼の孤独に安らぎを与えてくれる唯一の場所でした。そして、シモンの妻カティは彼の愛人でもあったのです。

 しかし、コールマン警部が、自分の犬として使っている男娼との信頼関係を断ち切るあたりから、彼の孤独が浮き彫りになってきます。
【映画を見ないとわからないのだけれけど、ジャン・ドザイ扮する実業家の家へ忍び込んで、ブロンズ像を盗もうとして捕らえられる少年と、ドロン扮する警部が手先に使っている美人(?)の密告者は同一人物だから念のため。・・・】
【引用〜キネマ旬報1972年12月下旬号No.595「外国映画紹介 新作情報 「リスボン特急」あれこれ」渡辺祥子】

 メルヴィル監督は、レジスタンスの経験から仲間の友情と裏切りを何度も経験したと聞きます。そして、それは巨大な権力機構に対する人間の弱さをあらわすものなのだと思います。しかし、人間としての最も強い孤独は、友情や人間とのコミュニケーションと断絶した権力機構そのものの中で生活していくことなのかもしれません。

 自らの手で気の置けない大切な友人を撃ち、愛する女性、厳しい仕事の合間に一息つける安らぎの場所を、権力構造の論理に従ったために全て失ってしまったコールマン警部。

 それは『山猫』で演じたタンクレディの後日譚でもあるようで、『カサノヴァ最後の恋』で演じたカサノヴァの孤独とも似通っているような気がします。
 旧友シモンを自ら撃ち、愛人のカティも目を伏せ、コールマンの無表情も苦渋に満ちている、このような単発の短いショットの連続により、甘い感傷を払拭したクールでシャープなラスト・シーンを成立させており、各登場人物の全ての心情が一瞬のうちに伝えられています。
 いつもの
「こちら8号車」
「ただちに現場に直行する」
というコールマン警部とポール・クローシェ演ずるモラン刑事のコンビネーションも空しく、現場の向かうパトカー内部では、ふたりとも電話の着信音を無視します。
 そして、彼の背後には、歪んだ警察庁舎の建物ではなく、シモンが登場していたときのように美しい凱旋門が遠景に映し出され、窓の外に遠退いて行くのです。

 皆 間違ったほうの岸にいるのさ
 岸を洗う情熱の災いの流れ
 流れのまにまに漂う夢の末よ
 さらば かつてわれわれであったもの
 生きる者は生きて行くのだ
 運命にもてあそばれて
 訪れて来たこのこと あのこと
 そして ああ 今は心に悔いるときよ ああ
(作詞 シャルル・アズナブール、歌 イザベル・オーブレ、訳詞 三木宮彦)

「悲しいことだが、アランとの仕事もこれっきりだよ。(−中略−)私はもう彼のジャンルの人物のすべてをくみ取り尽くしてしまったのだ」
 こう語ったメルヴィル監督は、アラン・ドロンとの映画創作の最後が、彼の人生の終焉と同じ意味を持つ結果となることも予想していたのかもしれません。そして、このことが、その後のフランス映画界においての最も大きな損失であったことは、誰もが何も語らずとも周知の事実だったことは言うまでもないことなのかもしれません。



by Tom5k
(2006/05/14 20:27)
リスボン特急
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